仙台赤門短期大学 看護学科

宮城県仙台市の看護師養成学校|仙台赤門短期大学 看護学科

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教職員コラムリレー
Akamon Column Relay

第8回看護師の私と子育て

鹿野 卓子

 

春一番だったのだろうか

出産予定日まで2週間という時、お腹の大きい私はアパートのドアが、

強風で閉まるのを右手で遮り示指の爪が剥がれるというアクシデントに遭遇した。

多分、お腹をかばったとっさの行動だったのだと思う。

結構な出血だったが、今思うにやけに冷静だったと記憶している。

主人に電話をかけ、急遽仕事場から主人を呼び寄せ、救急で外科病院に行き処置を受けた。

包帯でぐるぐる巻きになった指は、まるでそこに心臓があるかのように

ズキンズキンとした耐え難い痛みがしばらく続いた。

それから、予定日より1週間早く私は息子を出産した。

包帯をしたまま分娩台で息子を出産し

「その傷でよく頑張った・・・」医師からねぎらいの言葉をかけられたのを覚えている。

指の包帯は3か月も私の指を覆い、かくして私は息子の沐浴を一度もせずに終わったのである。

産後6週間、私は息子を保育所に預ける事ができ、看護師の仕事に復帰した。

ところが、保育所に息子を預けて10日後、保育士さんからひと言「お宅のお子さんは一日中泣いてばかりで、

ここでの預かりは無理です」と。

困った・・・アパートの大家さんに、息子を預けるところがないか相談した。

「私が見てあげても良いわよ」大家さんからの思いがけないひと言。

それからは、大家さんにしっかりなついてしまった息子は、私が仕事から帰り、

迎えに行っても、私に来なくなってしまった。

「今のうちだから・・・子供は必ず母親に戻るから」大家さんからのその一言に救われた。

幼稚園に入り、真っ黒い太陽を描くようになり愕然とした。

今思えば、息子に寂しい思いをさせていたのだと思う。

小学生になり、私は息子に自宅のカギを持たせ仕事を続けた。

主人が出張の時は、息子を職場に連れて行った事も数知れない。

息子が成長し医療職になったのはそれもあったのだろうか・・・息子に聞いたことはないが?

私の中で決して忘れることが出来ないであろう思い出が2つある。

母の日が近づいていた頃、遊んでいて遅くまで帰ってこない息子が、

自転車のかごに、小さなカーネーションの鉢植えを入れて帰ってきた。

いつも持たせていた1日200円の小遣いを、全部はたいて買ってきた私へのプレゼントだった。

主人が出張で不在の時、私は仕事が遅くなり息子にお寿司を取って先に食べているように伝えた。

遅く帰ってきた私の目に飛び込んできたのは、お寿司を前に手を付けることなく

私を待っていた息子の姿だった。

中学生になり、私は思い切り反抗期になった息子と過ごした。

まさしく、それは仕事ばかりしている私への出来る限りの反抗だったのだと思う。

今になって、けがをした右手の指が痛む。

そのたびに思い出す出来事である。