仙台赤門短期大学 看護学科

宮城県仙台市の看護師養成学校|仙台赤門短期大学 看護学科

MENU

教職員コラムリレー
Akamon Column Relay

第81回もうそんな歳かぁ

熊谷 英樹

母が亡くなってからもう29年が経ちました。

経ったというか、経ってしまいました。

 

先日、ふと仏壇に手を合わせていると母の位牌が目に入りました。

あまりにも時間が経ちすぎて普段は目にとまることはなかったのですが、

母は48歳、現在の私の年齢で亡くなったことを思い出しました。

今の私ならば、ずいぶん若くして…、もっとやりたいこともあっただろうに…、などと思いますが、

当時の私は悲しい、涙が止まらないということは一切なく、

これからどうしよう…という「不安」しかありませんでした。

 

当時の医療は本人に告知するということはほとんどなく、母子家庭ということもあり、

告知は18歳の私にされました。

その時の主治医は私の家庭事情も知っていて、「辛いことをあなたに話さなければならない」という言葉から始まり、

詳細に今の病状とこれから先に起こることを説明してくれました。

そして最後に「あなたはこれからいろいろなことを背負わなければならないと思う。

もし困ったことがあったら私に相談しなさい、借金があるようなら保証人にもなるから」

と言ってくれたのを覚えています。

幸い、相談することも、保証人になってもらうこともありませんでしたが。

そして話しの最後に「助けてあげられなくて本当に申し訳ない」と言って頭を下げてくれました。

今ならそんな無責任なことを言って!とか誰が責任をとるんだ!などと言われるのは必至なのですが、

その言葉に何とも言えない安心感をもらえ、だれにも迷惑をかけないようにがんばってやると思ったことを覚えています。

 

周囲の看護師さんも本当に気を使ってくれました。

その当時、母の入院していた病院は新病棟を増築したばかりで、その新病棟に患者を移動していました。

当時の看護師長さんは母を新病棟には移動させず、今までの病室に母だけを残してくれ、

私と弟が交代で寝泊まりできるようにし、いつ何があってもおかしくない母との時間を作ってくれました。

看護師さんが「食べなよ」と言いながら私たち兄弟にポケットからお菓子などを差し入れしてくれたり、

「今こういうお薬を使ってるんだよ」と説明してくれたり。

母だけではなく、私も面倒を看てもらっているという感覚がありました。

 

あれから30年近くが経ち、医療を取り巻く状況も医療従事者への教育の仕方も変わってきました。

私個人の感想ですが、現在の医療にももう少し患者と家族へ人間らしい思いやりがあってもいいような気がします。

10年ひと昔と言われるのに、そんな昔の話しをしてと言われると思いますが、

私はあの時の医療、医療従事者の皆さんに今でも感謝しています。

 

そして、現在、その病院に実習という形で学生を連れていくことがあります。

そこでその当時の看護師さんたちにお会いすることがあります。

こちらから「私を覚えてますか?」と尋ねると、

「あー!貴美子さんの息子さん!!」と覚えていてくれて、30年のお互いの経過を話したり、

現在の看護教育の話しまでします。

あの時の新人看護師が今では師長レベルの大ベテランの看護師になり、

私は縁あって看護教育の道に進みました。

あの時のつながりが時を経てまたつながることをうれしく思っています。

もし母が生きていれば、「お前に看護師なんてムリだ〜」と言われそうですが笑