第83回日本一低い山「日和山」と蒲生干潟
仙台市宮城野区蒲生2丁目29の26
子どもが、小学3年生になった2学期、私たち家族3人はここに新居を構えた。
それまでは広い道路沿いで車の往来が頻繁、冬はスパイクタイヤによる粉塵が舞い上がる所、
アパート暮らしだった。
子供は体調を崩すことが多くなり喘息になった。
このままだと子供の環境に良くないと考え、その頃ミサワホームに勤めていた主人の知人に紹介され、
当時ミサワホームが売り出した「ミサワセラミックホーム」のモデル住宅、
22棟並ぶ建売住宅を購入したわけである。
私の仕事場である病院が近かったのも、理由の一つだった。
夜、布団に入り枕に頭を付けると静寂の中に打ち寄せる波の音だけが響いた。
家族3人、元旦には初日の出を見るため、海に行った。
子どもは、蒲生干潟で野鳥観察をした。
その為か今も野鳥には詳しい。
蒲生干潟や日和山は、常に子供の遊び場だった。
私たち夫婦は、「貞山運河」沿いを散歩するのが日課。
「貞山運河」とは、江戸時代から明治時代の半ばまで、
年貢米や塩などを塩釜から仙台城下町へ流通させる舟運の重要な拠点だった。
私たち家族はここで、22年の時を過ごした。
子供はいつしか喘息も治り元気に成長しここから巣立った。
私たちが、この地を去った1年後、あの「東日本大震災」が蒲生をすべて奪っていった。
22棟の住人のほとんどは、子供が通った中野小学校の屋上に避難し助かったが、
蒲生地区は、すべてが津波により流された。
「運が良かったねぇ」何度も何度も声をかけられた。
声をかけてくださった人達の言葉の重さに胸が押しつぶされた。
生きていることが申し訳ないと思った。
そして、本当に「運が良かった」のだ。
だからこそ今こうして生きている。
私は、一年ほどこの地に足を向けることができなかった。
近くを通るだけで胸が締め付けられ苦しくなる症状が続いた。
それから現在まで、蒲生地区は工場地帯となり高い防波堤ができた。
中野小学校のお別れ会で、家族みんなで風船を飛ばした。
小学校は取り壊され、そこに慰霊碑が立った。
住んでいたところは、今は工場が立ち並び、何処に自分の家があったのか見当もつかなくなった。
7月3日、日本一低い山「日和山」の山開きが行われた。
「日和山」は震災前、標高およそ6メートルだったが津波で山頂が削られ、3メートルと
なり、大阪の「天保山」を下回って、日本一低い山となった。
「日和山」は蒲生干潟のほど近くにあり、蒲生干潟は見事に再生をした。
そして、野鳥が飛来し子供たちの遊び場に戻った。