第35回「カンカン、ダンパ、茶道部、東医体、記念樹…」私の学生時代
仙台市で学生生活と看護師生活を送っていたのは、40年位前のことです。
縁あって、再び仙台市民となり、毎朝母校の敷地を眺めながら仙台赤門短大に出勤することができるのは嬉しいことです。
学生時代の思い出を書くことにいたします。
当時、近くに「カンカン(どういう文字だったか定かではない)」という喫茶店があり、クラスメイトやサークル友達と大いに通い、
おしゃべりに花を咲かせました。
ダンパ(ダンスパーティー)にも挑戦し、同級生が、多めのダンパ券を確保していて、
教室で提供してくれました(初心者の私にも、ステップをレクチャーしてもらえました)。
今でこそ、「この体型だけれど、当時は、ジルバ、ルンバを踊っていた」と、娘に話しても、
「信じられないー」と言われてしまいますが、確かに踊れていました(今はステップの記憶も飛んでしまっていますが)。
元気な人の多いクラスでした。
毎年行われた運動会で、全在学通して仮装の部で優勝した事や、広瀬川での恒例の「芋煮会」の思い出があります。
当時の友とは今でも繋がっていて、時々、地方の温泉旅を楽しんでおります。
それから、少しの期間ですが、先輩の立ち上げた「茶道部」に在籍し、
瑞宝寺(だったかな?)へお茶会に行った事や、医短祭で浴衣姿で野点をした事も思い出です。
私の母校は、東北大学星稜キャンパス内にあり、私たちの学年が入学した年、
全学年がそろったという事もあり、先生方、先輩学年のお姉さま方にも大変お世話になった学年でした。
看護学生当時は、のびのびと過ごしました。
入学して間もない頃、私の座席の前に座っていた女子に誘われたのが縁で、
私は医学部バレー部のマネージャーをすることになりました。
ある年、「東医体(東日本医科学生総合体育大会)」で三位のメダルを獲得したのですが、
部員の方が、私たちマネージャー(当時は3名位いたかと思います)にも渡してくれました。
最近まで、当時の会場が、東京の代々木体育館だと思っていたのですが、
メダルの裏を見たところ「長野県」の文字が刻まれてある事がわかり、
記憶が混じりあっていた事に気づいた所です。
そのメダルは、今でも私の家に大切に飾られています。
バレー部OBの方と年一回、交流会があり、市内の某すし屋さんで開かれたコンパに、何人かOBの方がみえました。
その中に解剖学教授の森富先生がいらした事がありました。
後で聞いたのですが、文豪、森鴎外氏の血縁との事でした。
森先生が他界された今になって、『あの時、一言でもお話をする勇気を持つべきだった』と思い起されます。
サークル棟が、後に火災にあい、現在は綺麗な建物になっている、との事、
部活動は現在も引き継がれているとの便りを嬉しく聞き、ジャージ姿で走り回っていた頃をとても懐かしく思います。
戴帽式は、校舎内で行われました。
当時は看護学科教授、小池明子先生から、学生一人ひとりにナースキャップをいただき、
神聖な空気の中、気持ちが引き締まる思いがいたしました。
その会場で、一番感激していただいたのは学長の石田名香雄先生でした。
私たちの一つの節目の日、目を潤ませたお姿で祝辞をいただいた事を思い出します。
臨地実習では、最初に出会った胸部外科の、筋無力症の患者さんの事や記録、レポートで頑張っていた事が記憶に残っております。
成績は、あまり出来の良い方ではなかったと思いますが、なんとか進級、卒業できました。
国家試験会場は、仙台市内の某私立高校でした。
当日、緊張のあまり、私は恥かしながら、試験官の方が黒板に提示した用紙の書き方例を
そのまま自分の受験番号用紙に転記してしまいました。
運よく試験官の方が発見してくださり、事なきを得ました。
今、こうして看護に携わっていられるのは、私に関わっていただき、導いていただいた多くの方々のおかげであると思っております。
卒業式の頃だったと思いますが、許可をいただき、母校の敷地内に、
何本かのネコヤナギの木(当時は鉛筆の太さ位のもの)を植える事ができました。
植える事になったきっかけは、放射線科の渡辺長盛先生のお話でした。
講義をされている中で、「学生時代に昭和舎(という名の学生寮)に住んでいました。
卒業時に寮の敷地に桜の木を植えました。木は毎年、花を咲かせてくれて、いいものですよ。
皆さんも、是非、卒業の記念樹を植えられると良いですよ」のような話をされた事がありました。
そのお話が心に残っていて、石巻の実家の庭から、掘り出した幼木を握りしめ、
汽車と電車と路面電車を乗り継いで母校の事務室へ行きました。
私の突然の訪問と突然の申し出にもかかわらず、快く受けていただけました。
機会がありましたら、記念樹を探しに出かけたい、と思うこの頃です。