頓珍漢問答集 教養とは何か?
「東北大学に入学したのですが、本学はどんな大学なのでしょうか?」
東北大学には建学の理念が三つあり、今でも高らかに掲げられています。その一つが「研究第一主義」です。我が国には十一のリサーチ・ユニヴァーシティ、研究重点大学が設置されていて、本学はその中でも有力な一角を占めております。
「研究と教養は、関係があるのでしょうか?」
全く、無関係です。研究とは新知見を発見する、あるいは新技術を発明することです。我が国のみならず全世界で初出でなければ、研究とはいえません。世界で二番目になった途端、研究ではなくなります。既知の思想や歴史が研究対象である場合でも、新事実を掘り起こし、新解釈を施すなりして、やはり新規であることを打ち出さねばなりません。新規であることが、研究の研究たる所以なのです。一方、教養については、必ずしも世界で初めての、日本で初めての教養である必要はございません。古いタイプの教養であっても、何ら差し支えがありません。従って研究と教養とは本質的に無関係、異なる範疇に属する事柄なのです。
「であれば、研究者と教養人とは異なりますか?」
はい、違います。優秀な研究者が、教養人とは限りませんし、教養豊かであれば研究成果が素晴らしいとも限りません。
「東北大学が研究第一主義を掲げているということは、本学には研究者はいても、教養人はいないことになりませんか?」
回答、致しかねます。
「研究と研究者、教養と教養人の関係を、もう一度、説明してください」
研究を遂行しているのが、研究者です。ここで研究とは、特に自然科学研究にあっては、普遍性を有することが特徴であり、要請もされております。条件が整う限りにおいては、いつの時代でも、世界中のどこの場所にあっても通用する知見・技術を提供するものです。従って、得られた研究成果は、それを為した研究者から分離され客体化されていきます。つまり、研究者の人柄・人格と研究成果は、別物です。ところが教養とは通常、ある特定の個人に密接に関連するものであります。その人の個性あっての教養であって、人物を離れて、教養のアイテムのみ並べ立てても、無意味・無味乾燥な列挙にしかなりません。ですので、仮に類似の内容であっても、この人、その人ならではの在り方の違いが、それぞれの人物の教養を形作るものと思われます。
「大学は研究以外に、学生教育もその使命としているはずです。教育を受ければ、勉強すれば、教養が身につくものなのでしょうか?」
研究と教養は全く関係がないことを、先に述べました。それに比べれば、教育と教養とは、関係がないこともありません。勉強すれば自動的に教養が身につくとは限りませんが、教養を身につけるためには、勉強が必須です。即ち、勉強は教養の必要条件ですが、十分条件ではありません。
「教養を身につけるためには、何を勉強すれば宜しいのでしょうか?例えば、数学ができれば、教養といえるのでしょうか?」
数学の問題が解けることが、直ちに教養に結びつくわけではありません。決闘に倒れたり、狂死したりした、天才数学者の事例を思い出してください。天才を持ち出さずとも、数学科の学生さんや先生方は数学ができるに違いありませんが、彼らが教養人であるか否かは、数学科に問い合わせてみなければわかりません。同様にして、物理学・化学・生物学、あるいは文学・法学・経済学のいずれかを勉強したからといって、教養と言えるかどうか。
「それでは、あらゆる学問を修めれば、教養と言えるのですね?」
全ての学問に深く通じることが、果たして常人に可能なものかどうか、わかりません。もちろん、できるだけ多くの種類の学問につき、できるだけ深い理解を有していれば、それに越したことはないでしょう。しかし、学びによって直接的に得られるものは知識です。知識の多寡で教養が決まるとは思われません。むしろ、ある程度の幅と深さの知識が前提とはなるものの、そこから導かれる、ある個人特有の、総合的な見識みたいなもの。それがあれば、教養といえるのではないでしょうか。
「了解です。すると教養とは、知識の多いことではなく、知性の輝きということですね?」
そう定義して宜しかろうと思います。もう少し説明しますと、知識はその量を定量できますが、教養は定量化できない定性的なもので、しかも個々人に特有な性質のものです。その上で、さらに付言しますと実は、知性は教養の一部にしか過ぎません。
「えっ! 知性だけでも大変なのに、さらに別の何かを習得せねばならないのですか?」
これまでの話では、教養を知的側面からのみ捉えておりましたね。情と意が抜けています。というのは、人間の属性を分類して昔から、知・情・意というではないですか。教養が全人格的な表現であるとしたら、そう、あってほしいのが私の願いですが、知性が備わったとしてもそれだけでは、片手落ちです。知性に、情と意が加わって初めて、真の教養と言えるのではないでしょうか。
「感情や意志が、教養と関係があるとは、聞いたことがありません。全学科目や教養科目を履修し、単位を取得すれば、教養は身につくものとばかり思っていました。」
大きな考え違い、と言わざるを得ません。ちょっと話が飛びますが、「ナンパする」という表現がありますね。男子が女子にアプローチする、例えばお茶にお誘いする時などに使います。この「ナンパ」は、元来は硬派と軟派という人間の二大分類の、後者に由来します。軟派の人間はその性、惰弱にして、個人的な享楽に走る傾向が強く、その一環として男女の事柄に興味を示すものです。一方、天下国家を弁論し、経世済民に身を削るのが硬派の人間です。
「軟派や硬派、情や意が、教養とどう関連するのか、さっぱわからない」
教養にも、二種類あることを言いたいつもりです、軟派的教養と硬派的教養と。知性に加え、感性の豊かさが備わる場合は、軟派的教養を形づくるでしょう。一方、知性が、強靭な意志の力で統御されておれば、硬派的教養を養うでしょう。大事なのは、単なる分類の話をしているのではないことです。教養が何に役立つかを考えますに、それが個人のために有用であれば軟派的教養が、公共のためであれば、硬派的教養が求められます。
「教養科目には、感性を磨いたり、意志を堅固にするようなプログラムは、組まれていないようなのですが」
えっ!東北大学には、ないのですか。ひょっとしたら、どこのリサーチ・ユニヴァーシティにも、ないかもしれませんね。そうか、現在の大学のカリキュラムは知識偏重で、知性まで到達させてくれるかどうか、難しいところがあります。まして、感性や意志にまでは、配慮が及び難いのでしょう。場合によっては、芸術大学や自衛隊への一週間派遣コースなど、設置してもよいかもしれません。
「そんな!? このまま大学にいても、教養なんて身につきそうないように聞こえてしまいます。」
いいえ、違います。大学生であり、大学に在籍していることが、教養のためには極めて重要なのです。大学には、特に東北大学のような大学には、前途ある秀抜な子女が、そして、必ずしも教養人とは限らないけれど少なくとも研究面では俊秀である教授連が、結集しているはずです。学生さん同士が、あるいは学生と教員が互いに、全人的に交際すれば必ずや、知のみならず情も意も鍛えられる機会が、多々あると思われます。それが大学の、大学たる所以なのではないでしょうか。
「わかったようで、分からない結論ですね。最後の質問です。そもそも教養は、何のために必要なのですか?」
必要のない人には、なくたって一向に差支え無いのが、教養です。私見によれば教養は、必要があって身につける類いのものではありません。身につける人はおのずから身につけるであろうし、縁の無い人には終生、縁が無いでしょう。
(平成26年10月)東北大学 全学教育広報誌「曙光」 第38号 9-11頁