第93回ようこそ、そしてありがとう。実家で出会った生き物たちへ
今回は、私の実家の事と、実家で出会った生き物たちの事を書いてみます。
昔の事なので、記憶がおぼろげな事もありますが、想像力を働かせながら、書いてみます。
私の生まれた家は、築百年とはいいませんが、茅葺き屋根のある古民家様式のものでした。
水道はありましたが、井戸水も使っていました。
夏、採れたてのスイカ、キューリなどを井戸水で冷やした味は格別でした。
実家は先祖代々、米・野菜を生産する農家であり、敷地内に、穀物を貯蔵する蔵がありました。
また、機 ( はた ) 織り部屋 、と呼んでいた小屋があり、昔はそこで織物を織っていたと教えられましたが、
私にはその機械の記憶はなく、ただの畳敷きの小屋、という印象でした。
簡単な炊事場も付いていたように思います。
私が幼なかった頃、中学校の女性教師が機織部屋に下宿していた、と聞いたことがありました。
後に私が中学生になった時の担任ご自身が、「実は以前下宿していた」、と私に教えてくれました。
そういえば小学生の頃だったか、道路向かいにあるお宅に当時中学校の体育担当の女性教師が下宿していた事を思い出しました。
農村地域の為、宿泊施設やアパートがない、そのような環境でした。
これまでに、家屋は数回建て替えをしました。
写真好きな親戚が、家屋が変わるごとの写真を撮ってくれ、額縁に収められたものが茶の間にあります。
現在の家は、父母が建て替えたもので、築40年程になります。
東日本大震災時には、屋根瓦が剥がれ落ち、歪みができ、雨漏りやひび割れが生じたものの、
微調整ながら修繕してもらい、なんとか住むことが出来ております。
私の母親が、昨年に小脳出血で救急担送され、半年間の入院治療を受け、介護度5の状態になりましたが、
母親希望であった「最後まで自宅で暮らしたい」事を叶えることが出来ました。
次に、実家で出会った生き物について書いてみます。
祖父の元気な頃、米・野菜の生産の他に、いろいろ飼育をしていました。
牛、馬、豚、鶏、羊などがいた事を覚えています。
ある年、祖父が茶色い牛を飼い始めました。
牛の世話は、祖父が主にやっていました。
ある時は、牛の出産を家族で見る機会もありましたが、小規模な牛飼育だったのではないか、と思います。
牛小屋には、当時飼っていた犬・猫が出入りしていても、違和感などなくて、あの頃はずいぶんのどかな暮らしだったな、と思います。
何頭かの牛は成長して、ドナドナのように、荷馬車もしくはトラックに乗り、売られて行ったのだろうな、と思います。
やがて数年後に、牛小屋はなくなりました。
その代わり、豚小屋ができました。
エネルギッシュで賑やかな豚の鳴き声が、朝から夕方まで敷地に響きました。
徐々に豚の数も増えていったようでした。
親豚から子豚まで大小さまざまな世代の豚が所狭しと動いていた事や、餌箱が祖父の手作りだった事などを思い出しました。
豚餌は、黄色の粉状の餌と野菜・草などを祖父がミキシングを行い、手慣れた様子でした。
養豚は、祖父の時代にしばらく続きました。
それから、実家に農耕馬がいました。
馬はもっぱら父親が世話をしていました。
私は、毎回ではないのですが、馬小屋に行って餌やりなどをしたような記憶があります。
近所の獣医さんがやってきて、馬の爪のケアをし、その後に蹄を調整していた記憶があります。
そういえば、農業用具を置く小屋には、蹄が吊るしてあったし、鞍や手綱の馬具とか、馬に曳かせる農具など、
いろいろあった事を思い出しました。
馬の話に関連してバイオリンの話を書きます。
バイオリンの弓に馬の毛を使っている、という話です。
父親が「馬の毛を使って、バイオリンの弓を作るんだよ」と教えてくれました。
現在も実家には、古いバイオリンが置いてあります。
父親が若かりし頃に趣味で弾いていたものですが、長い時間使われず忘れられていたようです。
最近になって眺めてみたら、馬の毛がすっかり切れていて、音は出せない状態でした。
当時の私は、家の馬の毛で弓を作ったのだろう、と勝手に思っており、馬には随分同情していました。
勘違いとはいえ、恥ずかしい限りです。
馬に乗っている父親の写真が、実家のアルバムの中にあります。
私が、その馬に乗せてもらえたのかどうか、を聞く前に、父親も母親も他界したので、今となっては知る手立てがありません。
時間が流れて、現在は馬の代わりに青いトラクターが活躍しています。
トラクター操作は、この家を継いだ、私の甥が上手に行っています。
ついでに書きますと、操作の腕前は、彼の母親 ( 私の妹です ) の方がかなりプロ級です。
実家にきた寅模様の雌猫、の事を書きます。
私の3歳下の妹が大変かわいがっていた猫でした。
寝る時は、妹の布団で寝ていたのだと記憶しています。
ある朝、私の方が妹より先に起き、隣に寝ていた妹の布団の異変に気付きました。
何やら小さいのがうごめいており、それから、まわりに薄いカワのようなものが拡がっていました。
私は飛び起きて、母親だったか、母親がもう畑に出て朝の作業で母親が留守だったなら、きっとその時同居中の叔母だったか、
思い出せませんが、どちらかに、この事を伝えに行きました。
その時わかったことは、妹の布団の上で猫が出産したのだ、という事でした。
この猫と同時期に飼っていた犬は、仲が良く、一緒に昼寝をしていた犬と猫のツーショット姿を、今でも思い出します。
二匹目の猫は、私が宮城の実家に連れて来た黒猫です。
幼猫の頃、虎模様でしたが成長と共に毛の色が黒一色になっていきました。
私が関東で生活していた頃のある日、私の娘が、保護した子猫を両手で包んで帰宅しました。
「変な声で鳴いているダラリとした猫」だと、娘は説明しました。
観察してみると、後ろ足が骨折しているらしく、歩く事ができませんでした。
変な声というのは、痛みの為鳴いているのだという事がわかりました。
家で飼っている白猫の掛かりつけ獣医に連絡し、そのダラリとした猫を受診させると、後ろ足の骨折が見つかりました。
ムンテラの際、「獣医学生と僕とで手術をするので、手術料はいりません。」との言葉をいただき、
プレート固定術をしていただけました。
手術後の黒猫の経過は順調でした。
白猫と共同生活ができればよかったのですが、白猫が、黒猫の鳴き声に怯え、元気がなくなり、食欲も落ちてきたので、
実家の父母に了解の上、黒猫を宮城へ連れて行きました。
その後の彼(黒猫)は田舎の環境にも慣れ、小型犬サイズまで育ち、足にプレートが入った猫だとは思えない程、
よく走り、よく食べたようで、田舎暮らしを満喫していたようでした。
随分長生きし、老衰で亡くなりました。
過去に一度、ウサギが飼われていました。
当時私は看護学生で、仙台市内に暮らしていました。
ある時、我が家に帰ってみると、見慣れないカゴが置いてあり、中には白いウサギが入っていました。
県内に住んでいた叔母が、実家に連れてきて、飼育を依頼したのでした。
敷地や近くの畑には、雑草が山ほど茂っていて、ウサギの餌には困らないに違いない、と思っていたところ、
次の休みに仙台から帰ってくると、ウサギのカゴは見当たりませんでした。
家族に聞くと、「大雨の時期、ウサぎの身体に直接雨があたり、体調が悪くなり、天国に行った」、との事で、
私はウサギの再会が叶いませんでした。
話は変わって、暑い夏の日だったと思いますが、白へびが、ニョロニョロと実家の地面を這いながら、
古木の方向に行くのを見ました。
高さが十メートル以上もある木でしたが、木の地面近くには、直径20センチメートル位の洞穴が空いており、
そこをめがけて白へびが入っていったのを目撃しました。
北上川が地域の近くを流れており、当時は、自然環境が恵まれていたらしく、地元のあちらこちらに
へび、蛙、みみず、もぐらの類は見る機会がありました。
しかし動物園以外で白へびを見たのは、その時だけでした。
家族に話したところ、「各家庭に一匹ずつ白へびが住んでいて、その家を守っているのだ」、と教えられ、
幼い年齢だった私は、「そうなんだ」と、素直にも納得した事を覚えています。
その巨木は現在、切り株のみが残っています。
それから、ひつじを昔、飼っていました。
私の父親が、バリカンを使ってひつじの毛を刈っていたのを覚えています。
しかし、刈った羊毛を使って家族のセーターを作ったなどという記憶はありません。
ひつじ小屋もいつしか、なくなりました。
ひつじの他に 、やぎ を飼っていました。
ある日私の父親が、虚弱体質だった子どもの為にやぎを飼い始めたようでした。
私は、やぎの餌やりや、乳を搾った記憶があります。
私の主観ですが、やぎ乳は牛乳より濃い感じがするし、甘くて独特の匂いがしました。
父親が、搾りたてのやぎ乳を鍋に入れて煮立てた際、表面に張った膜 ( 「 栄養のかたまりだ」、と父親が説明していました ) を、
姉妹の誰が獲得するのか、を競い合った事を思い出しました。
それから、犬が実家に来た日の事を、私はよく覚えています。
親戚の家で子犬が生まれ、その中の雌犬をもらったのでした。
予防接種の当日になると、その気配を察知するらしく、朝から家屋の縁の下の遥か奥へ入り込み、父親を困らせたものでした。
その特別な日以外は、とても穏やかな犬で、人間が大好きな犬でした。
吠えたところは思い出せません。
毛並みが白髪になる頃まで、長生きをした犬でした。
また、実家では鶏をかなりの数飼っていました。
祖父の代、そして父親の代、父親亡き後は母親の時にも鶏を飼い続けていました。
鶏はとても早起きであり、太陽が昇るか昇らないあたりに、鳴き出します。
他の生き物同様、鶏も朝・夕の餌やりが欠かせない為、家を空ける訳にはいかず、
父母が揃って家を空けて長旅をするのは難しかった、と思います。
母親が、腰椎圧迫骨折をしたり、高齢になっていき、鶏小屋の規模が徐々に縮小していったある日、
二か所だった鶏小屋のうちの一か所が、空っぽになっていました。
当時は、妹たちが週末に泊りがけで、敷地内の野菜の世話と近辺の畑作業をがんばっていました。
状況を聞いてみると、「鶏小屋の土と金網扉にできた、ほんの少しの隙間から、ハクビシンが入り込み、鶏を全て襲った」との事でした。
この地域には、数年前からハクビシンが出没し、家畜を狙っている、という話を、妹や母親から聞いていました。
昨年の12月に私の母親が他界し、実家に飼われている生き物は、いなくなりました。
実家の周辺では、季節の生き物に触れる機会がまだ残されています。
私の子ども達が、夏休み・冬休みの間、長期滞在させてもらいました。
飼われていた生き物に加えて、蛍採り、蝉採り、クワガタ採りなどに連れて行ってもらえ、自然に恵まれた環境の中で日々を過ごせた事を思い出しました。
実家で出会った生き物たちに気持ちを馳せてみると、たくさん思い出がよみがえって来ます。
私や子どもたちの成長のチカラになった事に、感謝の気持ちが湧いてきます。
「 ようこそ、そしてありがとう 」 という言葉を、遥か遠くの空に向かって伝えたいです。