仙台赤門短期大学 看護学科

宮城県仙台市の看護師養成学校|仙台赤門短期大学 看護学科

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学長の部屋

手紙

B教授の仙台再訪に寄せて

 手紙と異なり電子メールは、仕事上の用向きで使うのが殆どです。私達の場合で言えば実験遂行に関連して、様々な打ち合わせに必要なのがメール。従ってメールのやり取りをして、仕事を越えて何か、心に遣るといった経験は殆どございません。とはいえ全く無い訳ではない。私が最近、心に感じた経験をしたのは、共同研究者であるX先生からの次のメールであります。「肺胞タンパク症にも色々あることを、この数日間、勉強させて頂いて、とてもハッピーです。私は非常に感動しております」内容の濃い議論をメールで繁く交換した折に、X先生が小生宛に発信した文章ですが、何の衒いもなく素直に、研究上の喜びを表現しております。私も思わず、「X先生が感動されていることに、私も感動しました」と返信してしまいました。
 しかし、心暖まるメールばかりが届く訳ではありません。次はY先生からのメール。「学者にも随分、色々な人がいるもので、悪意に近いほどの人もいるのですね。論文を投稿したのですが、レビューアーの1人が、ひどい難癖をつけるばかりか挙げ句の果てに、オーサーシップに疑義があるなどと言い出すのです。あっけにとられる思いでした。」研究者なら誰しも、自分の論文が、正当な批判なくして邪険に扱われる事に憤りを覚えた経験はあろうかと推測します。私の返信は、「そのようですね。何の為に研究生活をするのか。そもそもの出発点が異なる人が数人います。出発点は同じだったのだが、競争とかしているうちに、我を忘れる人はかなり多いようです」メールの文章などは瞬時に受信し、瞬時に読了。瞬時に返事を書いては、瞬時に送信。思考を伴わない、いわば介在ニューロンなしの脊髄反射。外科医並みの行動パタンが、メールの真髄です。それにしては含蓄深い返信をしたものだと、我ながら感心しているのが、上の文章です。
 出発点が異なるとはどういうことでしょうか?大学や学会でエラクなるという権力志向、あるいはお金もうけ。それらが目標であるとしか思えないような人も、確かにいます。しかし多くの研究者の出発点はごく単純であって、知的好奇心であります。ですが研究者の長い人生過程では、素朴に「知的好奇心」の幟を掲げておれば万事済む訳では決してありません。まずは大学院学生。論理なくしてサイエンスはあり得ませんから、徹底して論理訓練を受けます。ここで挫折するのが第一。次にポストドクからアカデミック・ポジションに就くまでの、ポストを巡っての奮闘。顔と顔をつき合わせての争いではないにしても、ポストの数が限られているのだから、同業者間での競争であることに変わりはありません。これが第2。そしてたとえ主任研究者、PIになれたとしても、まだまだ気を抜く訳には参りません。実験科学であれば実験遂行の為の研究費獲得は必須。その為には研究実績が物を言いますから、高品質雑誌に論文が掲載される様に努力します。論文が掲載されれば研究費は潤沢となり、潤沢になれば論文も出易くなるという寸法。逆に研究費か論文のどちらかにブレーキがかかれば、途端に悪循環が始まる。という次第で、常に好景気・不景気にさらされているのが第3。第1はともかくとして、第2・第3の挑戦は明らかに、有限の資源(ポストと研究費)を巡って、無限に群がる研究者同士の競争です。しかも困ったことに、いえ幸いなことに、競争に勝つことに自己の存立がかかっているとなると途端に、よく励み、より良い結果を出すのが人間の特性なのです。誰が案出したのかはわかりませんが、競争原理はサイエンスを進展させるのによほど、適合しているものとみえ、サイエンスにビルト・インされた競争の存在に、誰も疑問を抱いたり、異議を唱えたりは致しません。むしろ勇んで競争に馳せ参じ、勝った、負けたを延々と繰り返しては、それが研究者、ひいては人生最大の目標であり、愉楽であるかの如くに錯覚してしまうのです。
 勿論、当人がそれで宜しい、としている間は何ら、差し支えがございません。しかしながらサイエンス領域における現今の競争は、生産性を上げるための「良き」競争の範囲を、やや逸脱している場面も無きにしもあらず、ではないでしょうか?サイエンスの世界にもいつしか、資本主義の論理が貫徹するようになり、さすれば、何か(知的好奇心)の為に競争するのではなく、競争自体が目的と化してしまうのです。「お金がお金を呼び込む」類いの話と、基本的には同質です。経済の言葉に置き換えれば、産業の為の金融であるはずが、金融の為の金融に堕し、ついにはリーマン・ショックの破綻に至った経過は記憶に新しい。どこの時点で自己目的化という転回が起こるのか、研究者も自分の人生の意味を考えるのなら、経済学を学ぶ必要があるのかもしれません。しかし現実には誰も学びはしないし、学びたくないのでしょう。我が人類は未だに、飽くことなく、好況と不況を往来しております。
 話が経済学に及んだついでに、宗教にまで足を伸ばして見ましょう。教典で比喩が巧みに用いられているのは例えば福音書、イエスによる一粒の種子の説教は、比喩の好例です。仏教も同様で、有名なのは法華経に説かれる火宅の喩え。「火宅の人」という小説が流布した為、不倫を帯びた性愛に搦め取られるイメージが強いですが本来は、性愛に限らずこの世の様々な煩悩に囚われ、しかも嬉々として業火に身を焼かれている様を言います。外部から客観的に眺めれば、滅亡そのものであるのに、それを覚れないでいるのです。
 昔々、その昔、ガリレオが望遠鏡で月のアバタを観察したり、メンデルがエンドウ豆のシワを数えたりした時分には、競争に勝つ為にサイエンスに献身した訳ではないと思われます。サイエンスと競争とは本来的には、不可分の関係にある訳ではないのです。実験にお金が要り用となれば、王侯貴族か僧院がスポンサーとなり、ポンと寄付したのでした。しかるに現代のサイエンスは、国家をあげての、国民をあげての、生きるか死ぬかの競争の1つと成り果ててしまった。これでは我を忘れるな、などと叫んでも土台、無理な話です。我を忘れるしかない。そして勝つしかない。誰に対して、何の為に勝つのか、良くは分からないのではありますが、とにかく勝つ。
では、負ければどうなるのか?答えは簡単。別にどうってことはなく、消え去るだけの事です。ちなみに不肖、私、佐竹を御覧下さい。消えはしても、生きているでしょ、アハハ。夢から醒めれば、自分でも不思議な感覚です。知的好奇心、サイエンス、そして生きる事について、生まれて初めて考えるようになったのですから。
 B先生、先生にも、万に一の非常時があるかもしれません。でも研究以外に、もう1つの感性もお持ちと推測される先生なら、きっと大丈夫。夢にも色々な覚め方があることを、先生は示して下さるでしょうから。しかしそれにもまして先生は、私がこれまでに巡り会いました研究者の中にあって、類い稀なる努力家です。常人には不可能な努力を可能としていて、それ自体が天賦の才能であります。そういう先生の努力は報われて然るべきだし、是非とも勝ち続けて欲しいと、祈っております。

(平成23年8月)