英詩にまつわる手紙(Y先生へ)
何事かを表現する場合、私の場合それは、年に数回の雑文を書くことなのですが、雑文とはいえ印刷されなければ、書く気力は湧いてこないと思います。そこから類推しますに表現者にとっては、公の表現の場が確保されることが極めて重要であると、気がつきました。絵と詩の由来、先生と奥様の共同作業であった訳でしょうか。知らなかったとはいえ、「先生は何もなさらず」との、メールでの言い様、失礼しました。
この度、奥様の英詩まで添えられておりましたこと、真に驚愕の至りです。私事ですが、四十年前の学生時代を想い出してしまいました。先生もご存知のとおり当時、世相は物騒でしたが我々、学生は呑気であったと思います。私も呑気でありまして、授業にはあまり出ずに、大部分の時間を下宿で過ごしておりました。実学そのものである医学など、下卑た学問である(それなら、何のために医学部に入ったのか?)。最高の学問は数学と文学である(全く役に立たないから)。と称して一人で数学、といってもフーリエ解析、ラプラス方程式止まり、それ以上は歯がたたなかった。或いは文学、といっても、ただ何かを読むだけ、の勉強に没頭しておりました。外国語は英語しか出来ませんので、英文学のサワリのサワリ。まずは小説、すらすら読めるようになり、結構な数を読みました。ついで英詩。詩華集ですが、オックスフォード版のアンソロジー。中にサミュエル・コールリッジ作だったか、フビライ・ハーンを追憶する詞があったような覚えがあります。しかし学部卒業と同時に結局は、実学の研究に邁進することになり、数学も文学も夢の彼方とはなってしまいました。それ以来、です、英詩に触れるのは。とても懐かしい思いがしました。
猛暑が続いております。奥様の詞画集に良く目を通しましてから、そして涼しくなりましてから奥様、マイ・おくさんも一緒に、皆で会食いたしませんか?
(平成23年8月)