仙台赤門短期大学 看護学科

宮城県仙台市の看護師養成学校|仙台赤門短期大学 看護学科

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学長の部屋

青春を回顧する文章

駆け出しの志

 昔からそうで今もかわりはないと思うが、医学部卒業生は、秀才は内科、阿呆は外科、変わり者が基礎へ進むものと、相場が決まっていた。偏屈者の自分が医学部を卒業して、本学・細菌学教室の大学院学生として入学できたときは、大いに喜びを感じたものである。学部の学生とは所在のないもので、講義のたび毎にあっちの講堂、こっちの講堂と移動せねばならず、浮き草の如く漂っていた(昔は一つの講座に一つの講堂が付属していて、各講座は別棟に独立していた)。
 それが大学院学生ともなると、小さいながら机を与えられて、ようやくにして落ち着けるのである。さて席に着いてどうするのかであるが、自分の場合は格別、何の研究をどの様にやってみたいとの明確な目標があるわけではなかった。あるものとては、何かしらやってみたいとのエネルギーだけであった。大学院学生となり、その発散する場所ができたということである。
 ここで先程の、「秀才」の話との関連が生ずる。学部学生の間を通じて常に驚きであったのは、世の中には秀才というものがいるということであった。自分も高校生位までは、その端くれであった様な気もするが、医学部の秀才は断然、そのレベルが高い。先ずは解剖学から始まって病理学、更には内科学と、西洋医学の何世紀分もの蓄積の詳細が、大部の教科書につまっている。それらを悉く憶えなければならない。ところが一々の教科につき、そして全教科にわたって記憶できる人が実際いるのである。しかも単に、メモリー容量が大きいのみではないらしい。一つの質問をすると、直接的の解答があり、引き続き関連の諸問題を提示できる所からすると、秀才の頭の中では、各々のメモリーが有機的にネットワークを形成しているものの如く想像される。こうした頭脳の働きを一言でいえば、理解力と表現できるであろう。
 臨床医学を目の敵にしているわけではないが、漫画的に書くと分かり易い。即ち周囲の秀才連を眺めて、思った。一つの内科に一学年から十人進んだとして、十年間で百人、その中から教授が出るのだから、内科の教授というのは、秀才中の秀才であるか、それとも世渡り上手のこすい奴に相違ない。いずれにしても、少なくとも自分と同程度、おそらくはそれ以上の理解力を有する朋輩達と、世渡り術をも含めて競争するなど、自分にはできない相談であった。
 世渡り術というといかにも、上役におもねるといったイメージがあるが、私の言葉でいえば、ある限局された場所・時間内で、どれだけ物事を片づけることができるかの術、と言い換えることができる。医学生時代の実習というものは、数名がグループを作って、既定の指針のもとに数時間以内に、実験なりベッドサイド研修を終わらせねばならない。すると必ず学生の中から、リーダー役が出、一方その他多勢組が生まれる。役割分担がなければ、とうてい時間内に終わらせることなど、できやしない。 処理能力に長じた学生がリーダーになるのは、勿論である。
 内科学に象徴される臨床医学とは何か。これをかいつまめば、先ずは諸事百般にわたる知識を有し、それを臨床実践の場で駆使することである。先に述べた理解力・処理能力が要求される所以である。以上の磐石の基礎があった上で、ようやく臨床から出発した研究が始まる。秀才はそれらをこなすことができるのであろうが、自分にはとうてい無理であると悲観した。二十年も昔の医学生であった当時、臨床医学という学問が、そしてそれに従事することのできる臨床家の存在が、こうして自分を圧倒しさったのである。
 初老の身となった今では、ナニ、内科学といえどもそれ程のものでもアルマイサ、とタカをくくったりもする。またついでに言えば、上に述べた状況を認識できない、或いは認識しても蛮勇でもって切ることのできる、もしくは切るしかないとの事情から、阿呆が外科に進むと言われているのである。閑話休題、基本的に自分は今でも、臨床医学・臨床家に対する畏敬の念を、持続して有しているもので、これは医学生時代の印象に基づく。従って私の抱く理念から、ややはずれた様な医師を稀に目にしたりすると、怒り・軽侮の念を覚えたりすることにもなる。
 さて落ちこぼれた医学生には、それでも何かやってみたいとのエネルギーだけが残った。徒手空拳でもやれそうに思えたのは基礎医学、中でも実験系の研究であった。テーマなどは何でもよく、何度失敗してもよく、勿論実験にかかるお金のことなど眼中になく、秀才やら患者さんなど周囲への気兼ねなど一切なく、自分の手で心ゆくまでオモチャをいじりたいものだと思った。まるで子供の気分ではある。しかし実験者の精神の一部は存外その様なものではないだろうか。
 五年程前に図らずも、本研究所の教授に発令された。赴任時には資金なく、備品なく、学生なく、仁木君一人を助手に採用できたのみであった。現実的には大変困ったが、自分の精神は、はなはだ愉快であった。何も教授になれたことが嬉しいのではない。さあ、この研究室を、全くのゼロから作りあげるのだと思えば、研究者にとりこれ程の痛快はない。大学院学生として初めてピペット作業(当時はピペットマンなどという、高尚な武器はなかった)に従事したときと、似た感慨を抱いたものである。
 往時と異なるのは、自分でピペットを握るわけにはいかない点である(正確に言えば、ポジションの要求する仕事の質が変わったと認識したので、もう握りたくはなかった)。従って研究室の仕事を進めようと思っても、自分が実験しない以上、どうしてもスタッフ及び学生さんの協力を頼むしかないのである。その為には、他の人々と自分との間に、何らかの共通点がなければならない。この共有すべき精神が何であるのかは、自分にはよくわからない。自分が経験したより以上には、急に新しい精神に目ざめるものでもない。そこで次の様に言わざるを得ない。学生さんは思う存分、好きなだけ、研究して欲しい、そして自分は、学生さんの進歩に応じて、思う存分、研究をサポートしたい。
 昔、Boys, be ambitious! と言った人が、イタッケ。ボーイと書くと、何かしらレストランやホテルの給仕を思わせる。そこで少年、或いは青年と訳する。自分は駆け出し教授であるが、いつまでもそうあり続けたい。学生さんは当然、駆け出しである。仮に秀才でもない、また蛮勇もない少年・青年であっても、その特質は志を有することと思われる。学生・スタッフ・自分と、各員の駆け出しのレベルに応じて、研究の質の向上を目指して、奮励努力せんものと願っている。

(平成10年6月)「加齢研ニュース」第29号に所収