仙台赤門短期大学 看護学科

宮城県仙台市の看護師養成学校|仙台赤門短期大学 看護学科

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学長の部屋

青春を回顧する文章

四十年前、二十四才の見聞した、東北大学医学部細菌学教室

 エタノールであったか、何であったかは忘れた。市販のものは純度が高くなく、使い物にならない。それで、教室の隅に、大型の蒸溜装置が設置されていて、必要に応じて時々、何リットルかを精製していた。引火性なのに、傍らで平気でタバコを吸った。教室内での喫煙は当たり前。当時、禁煙という言葉は存在しなかった。

 直径、数センチメートル、高さ、1メートル以上のタンパク質精製カラム。低温室に、何十本となく、林立していた。図体は大きいのだが、分離能は悪かった。医学部出身者は生化学実験手技に疎いとの理由で、小生は触らせてもらえなかった。

 タンパク質溶液をカラムに通すと、希釈される。よって、カラム操作の度に濃縮が必要であり、凍結乾燥機が用いられた。蒸溜装置の隣に置かれていて、ロータリー・ポンプがダッダッダッと、音を出してバキュームを引いていた。丸底フラスコが何本も取り付けられていて、自分のフラスコの脱着時に、他人のフラスコの真空を破ってしまい、怒られたことが何度かある。

 ウイルスの濃縮や、細胞の分画など、何事にも超遠心機は必須であり、教室に4-5台はあった。ある日のこと、2本のチューブのバランスを取り、ローターに納め運転を始めた。2千回転まで上昇したところで、なんとなく揺れが感じられた。バランスが悪かったかと思って、運転を止め、チューブを取り出して、バランスを取り直した。安全を確認して、運転再開。設定した4万回転に達したところで、超遠心機を、いや、部屋を、いや、建物を、激烈な揺れが襲った。1978年(昭和53年)6月12日、宮城県沖地震であった。毎分4万回転のローターがどうなるのか、恐怖に身体が引きつったのを覚えている。後日、遠心機のドアを開けたら、軸受けから飛び出したローターは、チェンバーの壁に突き刺さっていた。

 宮城県沖地震で惨状を極めたのは、実験用のガラス器具である。当時、プラスチック製品は殆ど存在せず、ピペット・ビン・フラスコ・試験管など、あらゆる器具がガラス製であった。縦型の冷蔵庫・冷凍庫の観音開きドアは、揺れにより完全開放。庫内に保管されていたガラス器具は全て、放り出された。従ってフロアは、ありとあらゆるウイルス、細菌の溶液で汚染された。後日の後片付けの時、小生は何の防御もせず、モップや雑巾で拭きとり掃除をした。感染症には罹らなかった。

 センダイウイルスの力価を測定するのに、赤血球凝集試験を用いた。技官の多田さんが用意してくれた赤血球溶液と、ウイルスの希釈液を混合する。ウイルスが存在すると、血球が凝集し、試験管の底に結晶みたいに析出する。存在しないと血球はそのまま管底に沈降し、きれいな日の丸を作った。

 板状のスラブ・ゲル電気泳動は、まだ普及しておらず、円筒状ゲルを何本か立てて、ディスク・ゲル電気泳動を行った。

 ピペット。最も小型のものは、1mlピペットであり、0.1ml (100マイクロリットル) が測れる最小容量であった。現在のピペットマンは1マイクロリットルを測るのだから、当時の実験は現在の100倍ほど、粗大であったことになる。逆に大きい方では、50mlピペットがあった。往時のピペット操作は、口で吸い、人差し指で滴下量を調節していた。この50mlピペットから、1mlずつ、50本の試験管に、培養細胞の懸濁液を目にも留まらぬ早業で仕込んでいく(分注作業)、青田技官の名人芸を拝見した時は、肝をつぶした。自分の人差し指は不器用だった。

 大学院入試の問題。「ペニシリンの作用機作について、記せ」が、毎年、出題されるとの噂であった。それだけを覚えて臨んだところ、別の教授が出題したらしく、ペニシリンの問題は見当たらなかった。当然、小生の出来は悪かった。

 毎日、お昼休みに抄読会が開かれていた。教授をはじめ、妻帯者の先生方は、弁当を食べながらであった。教授は論理ではなく、直観の人であられ、比喩を多用して話すので、その議論は、小生には難解であった。

 小生が入局した時、教授は53才。東北大学・医学部長の重職に就かれたばかりであった。ところが夏には、短パンに雪駄履き、口笛吹きながら、廊下を闊歩するなど、余りにも自由奔放であられた。先生に対するに、学生である小生は、かえって居心地を悪く感じた。「もっと、偉そうになさってくださったら、いいのに」と、思っていた。

東北大学医学部細菌学教室同窓会100周年記念誌 平成27年に所収