昔、生きたこと。今、生きること
昔。十八才から六十三才までの四十五年間を、大学や研究所で過ごしました。
今。一年半前から、病院に勤めております。
昔。医学生、大学院生、ポストドクター、教員を経験しました。
今。医師として、働いています。
昔。分子生物学や細胞生物学の分野で、実験・研究に従事しておりました。
今。認知症患者さんの、内科診療に当たっています。
昔。基礎医学・生命科学の実験ですから、扱う生物は、大腸菌、培養細胞、マウスなどでした。
今。臨床ですから、接するのは当然、ひと、患者さんです。
昔。キーワードは、遺伝子とかゲノムなどでした。
今。キーワードは、高齢者とか誤嚥性肺炎などです。
昔。研究関連の論文を読んでいました。
今。「今日の治療指針」を読んでいます。
昔。論文を書くのが、職務でありました。
今。書くのは診療録、カルテです。
昔。読んだり、書いたりは、英語でした。
今。読むのも、書くのも、日本語です。
昔。論文の発表実績で、教授は評価されました。
今。ベッド稼働率の数字で、病院長は評価されます。
昔。論文は、数よりも、質を良くすることの方がより重要と考え、そのように努力しました。
今。ベッド稼働率の無理なアップが、医療・看護・介護の質を損ねてはなりません。
昔。研究では、論理を厳密にたどることが、重要でした。
今。患者さんや家族と話す際には、心の動きを察知することが、大切です。
昔。「理知」が、自分のモットーでした。
今。「感性」が、自身のモットーです。
昔。「生命」について、考えていました。
今。「いのち」について、考えています。
昔。生命現象の様々な局面を、分子レベルで解明することにより、「生命」の普遍性と特異性を理解できると、信じておりました。
今。「いのち」には限りがあることを、認知症患者さんを通じて、学んでいます。
昔。遺伝子改変マウスで見られた間質性炎症性肺疾患を、分子・細胞レベルで解析しました。
今。患者さんが肺炎を起こせば、治療に当たります。
昔。生命科学は「生命」が研究対象ですから、死の概念はありませんでした。
今。認知症は、現代医学をもってしても不治の病、そして高齢者の病です。否応なく、「死」について考えることになります。
昔。がんは悪性疾患であると、教わりました。
今。認知症は、がんよりも悪性である印象を、抱いています。
昔。分子生物学会や、細胞生物学会に所属していました。
今。仙台市医師会に所属しております。
昔。学会参加のため、東京や京都に出張しました。学会以外では、「全国国立大学法人附置研究所長会議」などという、大層な名前の会議に出席しました。
今。市外への出張は、全くございません。出席を要する会議に、「宮城県精神科病院長会議」があります。
昔。出張するため、仙台駅や仙台空港に行くと、必ず、どなたか大学の知り合いに、ばったり出くわしました。
今。仙台駅に出向くのは、オクサンの両親のご機嫌伺いに上京するため。一年に一回です。
昔。国内のみならず、米国などにも出かける機会がありました。
今。自宅―病院ーダンス教室の三か所、仙台市内の西部―南部―中心部を、巡回しています。
昔。研究関連の友人が、大勢いました。しかし、研究生活が終了すると、友人関係も消滅しました。
今。友達は、ダンスの女性が何人か。長く続いてほしいと、願っています。
昔。研究室を構成する大学院生は、男子:女子が、3:1の割合でした。
今。入院している患者さんは、男子:女子が、1:3の割合です。
昔。研究室のスタッフは、教員(教授・准教授・助教)と秘書さんでした。
今。病棟のスタッフは、医師・看護師・介護士の方々です。
昔。スタッフ構成については、男女共同参画が理念として、謳われておりました。
今。スタッフは、女性が圧倒的多数を占めています。
昔。教授秘書さんは、美人でした。
今。看護部長さんも、美人です。
昔。真摯に生きたいと、願っていました。
今。真摯に生きたいと、願っております。
(平成27年9月)仙台市医師会報 第613号 30-31頁