COLUMN

【第152回】焼石連峰の縦走 その②

山中、2日目の修行が始まった。
けっこう食べているのに、さっぱり重さが変わらない重量リュックを背負っての歩きが再開された。
どんなに重くても、苦しくても、大変でも、今は歩かないと帰れない。
(私は何をやっているんだろう)と、ふと思う。
 
今日は、目的の焼石岳を通り、麓の尿前にある胆沢ダムまで下り、更にバスで東北本線水沢駅に向かい、家まで帰る。山の中だけで12キロを歩く。家は、はるかに遠い。帰れるのだろうか。
六沢山を過ぎ、東焼石岳、そして春には「花の山」になるという焼石岳は、初冬の金茶色をまとって、泉水沼に青空を映して君臨していた。
焼石岳
「上まで登る時間が無いねえ。」と、山頂はあきらめて稜線をなぞるように下山路に向かう。
森林限界を過ぎて、周囲が丈の高い木に覆われ始める。
紅葉はきれいなのだが、見晴らしがきかないため、自分がどれだけ下りたのか、どこにいるのか全くわからない。
「分け入っても分け入っても青い山」という山頭火の詩が、再びうかぶ。
(歩いても歩いても山の中・・・)
 
尾根筋の林が切れて、見晴らしがきく場所に出た。
あんなに、あんなに、あんなに歩いてきたのに・・・「まだ、下に山がある。」と呆然とする。
「こんなに下りたのに、まだ山の上だ~。」悲鳴のような私の叫びを聞いて、先輩たちが笑う。
紅葉の合間から、眼下に重なる山の稜線を見下ろして出るためいき。もしかして人生ってこんな感じ?
 
更に歩いて、小さな沼の畔に出る。「石沼」という名札が立っている。
「もう少しで麓に着くよ。」先輩に声をかけられる前から、空気が変わったのを感じていた。
歩いてかく汗や、荒い息の温度まで、私の体から生きている証をそぎ取っていくような刃物にも似たするどい山の空気が、沼に近づいたあたりから柔らかな温度を持った空気に変わっていた。
人間という生き物を、徹底的に排除しようとしていた山から、存在することを許されたような、かすかな温度。
 
しかし、私の体は限界に近付きつつあった。
リュックの重さで両肩は筋肉が強張り、石のように固まっていた。食い込むベルトで血流が阻害されているのか、両手の甲は浮腫みきって指の関節がえくぼになっている。
そういえば、朝に排尿したきり12時間に及ぶ歩行の間、一度も尿意を感じていない。
大丈夫か、私。
 
唐突に舗装道路に出た。
あっけない山の終わり。
それでも、私たちの縦走はまだ終わっていなかった。
 
「ツブ沼駐車場」から石淵ダムに沿って「尿前」のバス停まで更に数キロの舗装道路を歩く。
陽は山影になり、あたりは薄闇につつまれた、暗い道を行く。行きかう車も無く、足音だけが闇に吸い込まれていく。3人とも、しゃべる元気などとうに無い。無言の行。
 
やっと着いたバス停で、1時間以上を待ち、バスに乗る。
人工の灯りとバスの排気ガスの臭いに対し、やけに非現実的な感じを抱きつつ、やっと「山から生還できた」という実感が湧いてくる。
誰かが何かに書いていた。山に登るたびに生まれ変わる、と。
そんな感じ。
 
そうやって、私の初めての「山中泊付きの山行」が終わった。
 
一緒に歩いた先輩の1人は、翌年開院する別の病院の管理職へとヘッドハンティングで転職していった。山に行った10月には、すでに何らかの話があって決断を迫られていたのかもしれない。
もう1人の先輩は、その後キリマンジャロ登頂ツアーに参加し、キリマンジャロの山頂で「よし、結婚しよう」と決意した、とのことで地元の専業農家に嫁いで行った。彼女もまた、あの時、結婚を決断しなければいけないような状況下にあったのだろうか。
もしかすると先輩たちにとって、あの焼石岳縦走は何かの岐路になっていたのではないか、と今になって思う。
そして、自分たちの人生の選択肢を前にして、たぶん今の職場を去るであろう決断をする予定だった時に、どうして私を誘ったのだろうか、とも思う。
社会人になるまでに、私は本当に何もできない何も知らないくせにプライドばかり高い子供だった。
そんな私に、今のままじゃだめだよ、自分から歩み寄らなくちゃ成長できないよ、と先輩たちは教えたかったのかな、とも思うが、言葉では語りきれない大きく重いあのリュックのような何かが私の中に残された。
 
あれから40年が過ぎて、振り返ってこの文章を書いている。
40年が過ぎても、あの山行で感じた鮮烈な空気、夜の暗闇と寒さ、太陽の暖かさ、そして体にかかるリュックの重量感は、忘れられない思い出として残っている。                        おわり

 
特任准教授 熊田 真紀子