COLUMN

【第53回】私の夫は和昭さん

「私は多分、和昭さんが居ないと生きていけないのではないか・・・・・

しかし、私は在宅看護に看護師としての価値を見出し看護の道をただひたすら歩んできた。

最後は和昭さんを家で看取り、妻として看護師として全うしたい。

いや、その前に私が認知症になるかもしれない、いや、夫が認知症になるかもしれない

その前に突然死だってあり得る。

明日どうなるかもわからない。

1人で暮らしていけるのか、息子の世話になるわけには。

お金も無いから有料老人ホームにも入れない。

せいぜい特別養護老人ホームに入れるか・・・・・私の頭の中で妄想は限りなく広大になっていく。

和昭さんとの人生も後半にさしかかってきた。

最後は良い人生を送れたと満足するに違いない。

そんな夫婦であり続けてきたと誰にでも自慢できる。

それだけは間違いようのない事実だ。

和昭さんと知り合ったのは、私が看護学生、総合病院の消化器内科。

和昭さんは、胃潰瘍で入院してきた。

患者と看護学生、どちらが先に惚れたのか、惚れられたのかそれさえも定かではないが、交際がスタートした。

もちろん誰にも気づかれることはなかった。

入院中に外出許可が下り七夕を見に行った。

山寺にも行った。

ただ一緒に居る事が楽しかった。

お金も無し、イケメンでもなし、高学歴でもなし、今の若い人は決してお付き合いの対象にしない3拍子がそろっていた。

その後、無事に国家試験を合格し、私と和昭さんは結婚した。

プロポーズの言葉はなかった。

そんな言葉はどうでも良かった。

もちろん、親やきょうだいからは猛反対を受けた。

私の父は小学校の校長、兄や姉も教師、私は末っ子であり、

私の夫となる人は公務員でなければならぬと勝手に決められていたからだ。

きょうだいの世話にはならぬと決めた。

それからは「貧しいながらも楽しい我が家」。

ちょうど、南こうせつの「神田川」が流行ったころ、私達にぴったりの歌だった。

22歳で息子を出産し、43歳の時息子は巣立った。

その時私たち夫婦は「お父さん」「お母さん」という呼び方をやめ、お互いに名前で呼び合う事を決めた。

子育てを終え、これからは互いを妻・夫として尊重した生き方をするという事だ。

それから二十数年、私の夫は和昭さんなのである。

2人で日本全国を旅してまわった。

昨年コロナの影響でそれは途絶えたが次の行き先は決まっている。

その日が来るのがただひたすら待ち遠しい。

互いの誕生日・結婚記念日は少しだけおしゃれをして私達にとっては最高の食事を楽しむ

それは2人の中の大切な行事として一度も途切れず続いていること。

その時だけは和昭さんと腕を組み歩く。

今、和昭さんは自分の趣味を謳歌し、食事を作り私の帰りを待っている。

私の帰るコールは毎日続く。

「和昭さん」今日の夕飯は何?

「和昭さん」今度の休みどこに行く?

「和昭さん」いつもありがとう・・・・・。

結婚生活、何があるかわからない。

乗り越えてきたことは山ほど以上。

だからこそ、そう言える日がここにある幸せ。

鹿野 卓子

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