第90回【非常勤講師特別コラム】第5回「重い障害のある子どもたちとのかかわり合いから学んだこと」
私の研究分野は特別支援教育であり、重い障害のある子どもたちへの教育に関する調査や実践に取り組んでいます。
大学院生の時には、「超重症児」と呼ばれる、濃厚な医療的ケアを常時必要とする子どもたちの状態像を、
教育の立場からどのように理解していくことができるかについて検討してきました。
その中で、実際に2名の子どもたちとかかわる機会を得たのですが、2名とも、人工呼吸器を常時装着しており、
また、重篤な意識障害を有していました。
そのため、かかわるといっても、実際には、働きかけが子どもたちに伝わっているかどうかよく分からない、
子どもたちが寝ているのか起きているのかでさえ推し測りがたいという状況でした。
しかし、身体部位の微小な動きや脈拍数のモニター画面などに着目し続けた結果、額を撫でる・手掌に触れるといった、
刺激としては決して過度でない働きかけに関連した状態変化が、子どもたちにおいて見いだされました。
実際のところ、子どもたちに働きかけがどのようなものとして受けとめられたかは分かりません。
しかし、たとえどんなに重い障害を抱えていても、子どもたちが周囲と一切関係なく生を営んでいるわけではないこと、
手に触れるなどの何気なく行いがちな働きかけを決して軽んじてはいけないこと、「反応がない」と判断する前に、
重大な見落としをしていなかったか吟味しなければならないことなど、基本的な、しかし非常に大切なことを、
子どもたちは私にたくさん教えてくれました。
私は子どもたちに外界の存在を伝えようと働きかけ、それによって子どもたちは少なからず影響を受けました。
また、私も学びを得たという点で、大いに子どもたちから影響を受けました。
このような形で、私は子どもたちとかかわり合うことができたのではないかと考えています。
特別支援学校における児童生徒の障害の重度・重複化や多様化が進む中、
これまで有効であった(有効であると信じていた)指導・支援方法が通用しない事態に多々遭遇することが想定されます。
かかわり合いの糸口さえ見つからないこともあるでしょう。
実際私は、このような状況に直面しましたが、その時、梅津八三氏の考えがたすけとなりました。
梅津氏は、以下のように述べています。
普通の子どもをあつかった経験からこれならばと思って使った手が、拒否されたり、何の反応もかえってこないことがある。
(中略)
自分が相手の教師でありえないことがわかったら、さっそく相手の教え子になることである。
目や耳が使えなくても、なお肌で、鼻で、舌での交信は可能ではないか、
そのうちにお互の行動を規制しあうような条件性の信号のいくつかは生まれてくる。
教育的な係わり合いの芽生えである。
※梅津八三(1974)重度・重複障害者の教育のあり方.特殊教育,4,2-5. より引用
これからも、「自分は“教え子”である」という姿勢を忘れず、教育実践活動に励んでいきたいと思っています。