第70回行雲流水;平安な暮らし
「行雲流水」は有名な四字熟語で,座右の銘としてもよく紹介されています。
故事ことわざ辞典によれば,物事に執着せず,自然のなりゆきに身をまかせること。
また,とどまることなく自然に移り変わって淀みがないことの例え,と説明されています。
新年に書き初めをしました。
25年ぶりの書き初めでしたので,筆の持ち方も忘れており,いい出来ではありませんでしたが,
せっかくですから日頃からお世話になっている先生に新年のごあいさつをかねて送ることにしました。
しばらくすると,先生からご返信がきました。上質な紙に万年筆でこのように書かれていました。
この日の夕食では清少納言を話題にしました。
すると,小学生の娘が「せいしょうなごんってどれが名字でどれが名前なの?」と質問を投げかけ,
息子が「少納言は役職だよ」と返答していました。
小学生らしいやりとりを微笑ましく思いました。
私は,「枕草子を書いたのは清少納言,源氏物語を書いたのが紫式部。
ふたりは仲たがいしていて,紫式部が清少納言を批判しているのが書物に残ってるのよ。
いつの時代でも女性のこころにあるかもしれない妬みとか,そういうのはやっかいだよね。」と
子どもたちが平安時代の書物に関心をもつきっかけを作りました。
私は高校時代に多くの時間をかけて源氏物語を読みました。
具体的に言うと少し恥ずかしいのですが,古典文学を深めるためではなく,本当は恋愛小説や漫画を読みたかったのですが,
そうすると勉強をしない自分に罪悪感があるので古典文学でも読もうか,
といった思春期の私の気持ちに折り合いをつけた先が源氏物語だったということです。
このようなきっかけでしたが,読み進めていくと光源氏と数々の女性の恋愛物語に夢中になりました。
貴族社会の恋愛小説は20世紀のバブル崩壊後の社会で生活する私の心に豊かさや勇気を与えてくれましたし,
源氏物語をモチーフにした男女についての空想をたくさんしました。
また,源氏物語の舞台は京都の街中や宇治,滋賀の石山寺などですので,
当時の私が日常生活を過ごす場であったことも関心を深める要素だったと思います。
市バスでゆかりの地をたずねて,鴨川で友人とお話をして,お抹茶パフェを食べる。
お店で伝統工芸をみる。
このような休日を過ごしていた時期がありました。
足るを知る。
ものを粗末にしない。
平安な暮らしです。
京都の文化に根づいているお作法かもしれません。
話は変わりますが,解剖学者の養老孟司先生は,合目的的な生活をしている都会化された私たちに,
未開拓な自然からの学びを勧められています。
それは何かというと,私たち人間は自然の一部だということに気づき,
自然に起こることに対しては「仕方がない」と思う心をもつということです。
つまり,自然に居合わせ,自然と共生し,自然のなりゆきにまかせるということだと思います。
まさに行雲流水です。
今回のコラムでは,行雲流水をモチーフに書きすすめました。
いつの時代の人間にも妬みや恨みの心があってそれが人間の本性だということを反省し,
行雲流水なる生き方について養老先生の言をお借りし表象しました。
行雲流水という生き方をするには,自分らしさと自分勝手の区別ができ,
自分で責任がとれる成熟した人間であること,またはあろうとする意識が必要だと思います。
本日は2022年1月26日です。
残り11か月,行雲流水を意識して生活しようと思います。
本年もよろしくお願い致します。