第31回特別企画「こんなときだからこそ・・・」(全4回)第3回『北海道スイーツのルーツは仙台伊達藩士にあり?!』
むかしむかし、生まれ育った九州の土地で大学教員をしていた私は、
甘いものに目がない食いしん坊である自らの永年の夢をかなえるべく、
一念発起して北海道へと転居し、とある大学に勤務しておりました。
皆様ご存知かもしれませんが、北海道のお菓子類には、ほかの土地にはない独自のおいしいものがたくさんあるのです。
白い恋人®やマルセイバターサンド®といった、いまやその名を日本全国に知られるもの以外にも、
実に多くのスイーツが北海道各所に存在しています。
いまだに他県への移動が自粛されている現状ではありますので、
なかなか北海道を訪れてスイーツの食べ歩きができないのが寂しいかぎりではございますが、
そのかわりとしてはなんなのですけれども、今回はこの北海道スイーツの原料であるお砂糖と
伊達藩士の深~い関係についてお話ししたいと思います。
戊辰戦争において幕府側についた仙台伊達藩の中でもとりわけ、
現在の宮城県亘理(わたり)郡亘理町にあった(仙台藩主伊達氏の分家である)亘理伊達氏への、
戊辰戦争後の明治新政府からの仕打ちは、実に苛烈なものでありました。
それまでの所領をわずか数百分の一まで削減されて、石高(こくだか)もわずかとなり、
数百名の家臣の生活はたちまち窮乏してしまいました。
そこで、第14代当主であった伊達邦成は、明治3年(1870年)みずからその家臣の武士たちを率いて
北海道の地に海路にて移住し、冬の厳しい寒さにもめげず現在の北海道伊達市を開拓したのでした。
しかしながら、有珠山のふもとの原生林は火山灰におおわれており、人力による開墾を
たいへん苦労してなしとげても、通常の稲作は冬季の寒冷ともあいまって困難を極めたといいます。
そこで農学知識が豊富だった伊達邦成たちは、お米の代わりに小豆(アズキ)の栽培をこころみたのでした。
さいわいなことに、そこは北海道内としては比較的温暖な降雪量も少ない場所であり、水はけのよい傾斜地でもあったので
小豆の栽培は大成功いたしました。
そして、小豆からお砂糖を作り出し、明治10年(1877年)には、あの札幌農学校のクラーク博士が伊達の視察に訪れた際に、
砂糖の原料となる甜菜(テンサイ)の栽培を勧められます。
そして翌年から甜菜の栽培を開始し、とうとう明治12年(1879年)には日本初の官営製糖工場である
紋鼈製糖所(もんべつせいとうじょ)を開設したのです。
この工場は、明治維新後に新政府が西洋諸国に対抗して、国家の近代化を図るために設置した官営模範工場でありました。
この官営模範工場の開設による新産業の育成を目指した功績を評価され、伊達邦成はのちの明治25年(1892年)、
男爵位を授けられ華族に列したのです。
ちなみに、いまも北海道伊達市と亘理伊達氏の旧領であった宮城県亘理郡亘理・山元・新地の三町は、
「ふるさと姉妹都市」として提携関係にあるとのことです。
良質なお砂糖が北海道スイーツのみなもとですから、お菓子王国北海道のルーツは亘理伊達藩士にありと思うのです。
なお、自戒の意味も深くこめまして、運動不足な外出自粛生活でのスイーツ食べ過ぎには
気をつけたいと思う今日この頃です。(文中敬称略)
甜菜(テンサイ)
「きのとや」のホールケーキ!